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エグゼクティブプロデューサー: 飯田年久
プロデューサー: 青山国雄
撮影監督&シネマトグラファー: パレ・シュルツ
脚本&ナレーション: ミンディ・タン
技術、カラーグレーディング、音楽: パレ・シュルツ
マネージメント&スチル撮影: ミンディ・タン
写真家:
ミンディ・タン、エリック・ブーベ、パトリック・ラロック、メーガン・ルイス、シャーリーン・ウィンフレッド、ヨナス・ラスク、ザック・アリアス、ケビン・ムリンズ、ロンメル・ブンダリアン
写真&テキスト: ミンディ・タン
撮影の最終日、私たちは背の高い木々とセミの鳴き声に囲まれた森でキャンプをしていた。
クニオは力を尽くして茂みから大きな木片を運び、本栖湖を見下ろすキャンプファイヤーを作り、私たちは雲の後ろから富士山が現れるのを辛抱強く待っていた。
やがて日が暮れ、富士フイルムのマネージャー3人、大石誠、渡邊淳、青山国雄、それにXフォトグラファー2人、パレ・シュルツと私(ミンディ・タン)というなんとも奇妙な組み合わせで、夏の寒い夜にキャンプをともにした。
クニオは夕食の準備を手際よく進め、肉の塊は炎の中へと入れ込まれた。 その間、私はテーブルを囲った才能に溢れ、情熱的な友人たちを静かに観察していた。
2019年は富士フイルムとともに過ごし、出会い、楽しみ、食事が凝縮された感慨深い一年だった。
始まりは、ドイツのケルンで開催されたPhotokina 2018。 富士フイルムは、この世界最大規模のカメラの祭典でかつてないほどの存在感を示していた。 私は、X-H1で撮影したドキュメンタリー映像「Forbidden Tattoos」についての講演をするために招待されていた。 富士フイルムが世界中のXフォトグラファーを大規模なイベントに招待するのは「伝統的」。他のXフォトグラファーと交流する機会があるのも楽しみの一つだ。
イベント後に開かれたレンガ造りのドイツ料理レストランでの食事会で、クニオは私の隣に座って「映画を作らないか?」と話しかけてきた。
「写真家が世界中を旅して他のXフォトグラファー達を訪問するんだ」と彼は言った。 「撮影はパレで、写真家はミンディ」とクニオは続けた。 デンマークの写真家と私がたまたま並んで座っていたから、そのようなアイデアを思いついたのだろうか? 群衆からの騒々しいおしゃべりが私たちの会話をもみ消した。 私たちは、彼がどこまで本気なのか?その週の活動によって突然の考えが引き起こされたのか?または言語の隔たりで見当違いな解釈をしてしまっているのか?その当時、彼の発言を信じきれていなかった。
それが2018年9月。
その3か月後、東京での打ち合わせへの招待状が、シンプルで短いメールとして私の受信トレイに届いた。 パレも東京へ向かうらしい。 静かに、プロジェクトが動き始めた瞬間だった。
自分がチョコレート工場のチャーリーになるなんて想像できただろうか?
富士フイルムのドアが開放され、オールアクセスパスをもらい、今まで聞きたかったことすべてを聞くことができるなんて?
大手のカメラメーカーが、一人のシンガポール出身の女性写真家である私をそこまで厚く信頼してくれることがにわかに信じがたい。
私の役割は脚本とナレーション。リサーチにも必然的に時間を費やした。 スチルの撮影も請け負った。 ロケのスケジュールや、写真家との日程調整、フライトの手配、パレと二人分の現地でのホテルや移動手段などやることはたくさんあった。 ありがたいことに、クニオと彼のチームメイトであるユウトとトシヤが、日本でのアレンジをヘルプしてくれた。
9か月の間に、撮影とインタビューのために、西オーストラリアのニューマンとマーブルバー、ドバイ、パリ、モントリオール、シンガポール、マニラ、デンマークのオーフスとコペンハーゲン、英国のマルムズベリー、日本の東京と大阪へと世界中を駆け巡った。
長旅だったが、それだけの価値があったと思う。
考えられる分だけ、この映画のテーマが私の頭を駆け抜けた。
プロの写真家は何を見たいのだろう?
写真愛好家は何を面白いと思うのだろう?
この映画の主人公は誰で、主題は何なのだろうか?
どのような情報を世界に発信すべきなのだろう?
私は正直でいたい。 そして、リアルでいたい。 私は一見当たり障りのない普段の生活を捉えたいが、実はそこには多くの文化的背景と意味がある。 そして、それらが自分にとって当たり前になる前に、捉える必要があった。
私は元新聞記者として、錆びついたスキルを再び掘り起こし、磨き直すことにした。
最終候補者に残った写真家と私はSkypeでインタビューをした。 スクリプトを作成し、出演者を決定するための、撮影事前インタビューだった。 残念ながら全員をフィーチャーすることができなかった。 この場を借りて謝りたい。
大宮の事業所に初めて訪問したとき、私たちは社員が着るグリーンのジャケットを手渡された。
富士フイルムの若手メンバーが大宮の事業所についての常に冗談交じりに語っていた。東京の近代的なオフィスと対照的に大宮がどのように見えるかについて。
「ここで撮影できるの?」到着してすぐに私は質問をしてみた。
「富士フイルムのみんなは、どんなイメージを築きたいのだろう?」と心のなかで思いつつ。
これまで私が手掛けたクライアントにはとても厳しく自己検閲を実践している人たちもいる。限られた一部の側面しか公共に出したくないから。
「問題ない。撮影していいよ」クニオはそう答えた。
「ただ、撮影する時はグリーンジャケットを着てくれ。色々と不思議に思われるだろうから」彼はそう続けた。
「これは本当にドキュメンタリーになりそうだ!」 ポーカーフェイスを維持しつつ、私は心のなかで思いっきり興奮した。
彼は同僚のデスクから上履きと濃いミントグリーンの富士フイルムジャケットを私たちに手渡してくれた。 私が女性で、建物内にいる95%が男性だったという事実は別として、私はかなり上手に溶け込んだと思う。ジャケットを家に持ち帰りたかったほどだ。
私のリサーチの大部分は「調査」。 恥ずかしがらずに全員に質問し、それをまとめて最初のドラフトを完成させる。
ドバイのGulf PhotoPlusでは、「ボス」として知られる富士フイルムの電子映像事業部のトップであるトシ・イイダがピッツェリアで夕食を食べながら腕を伸ばして座っていた。 私は勇気を出して、彼にいくつかの質問を投げかけた。それらが文化的に適切なのか、それとも単に失礼なのかはわからなかったが、「写真を撮りますか?」「撮るとしたら何を撮影しますか?」と。
そして彼は、10代の頃父からのプレゼントされたニコンのフィルムカメラと天体写真への愛について語ってくれた。
私は彼が職場の近くに住んでいるのを知っていたので、彼の生活について続けて尋ねた。 そして、「ボス」は妻と娘について語ってくれた。
それは、仕事とは関係ない彼のプライバシーに突っ込んでいて、トップの人に質問するようなことではないことは分かっています! しかし、脚本のため、私は知りたかった。 彼がそれについて嬉しそうに語ってくれたことに安堵した。
愚かすぎる質問はないと思っている。 1つの質問が、別の興味深い事実につながる可能性があるのだから。
こういった個人の内面的な要素、背景を知り、理解することで新たな何かが明らかになる。インタビューの醍醐味であり、どういった人々がどういった価値観でブランドを築いているのか知ることができる。
X-Pro3のチタン製トッププレートは元々工場にはシート形状で届き、プレス加工して成形されていることをご存知だろうか? 硬い素材は取扱が難しいため、上部プレートがなかなかきれいに仕上がらない。 生産を開始する前に、製造プロセスを確立する前に、無数の試みを行わなければならなかった。
プレス工場では、とある男性「B」が、X-Pro3の完璧なトッププレートを仕上げるために全力を注いでいた。
X-Pro3の生産がスタートする日、私たちはプレス工場を訪問したが、彼は、完成したカメラをまだ見たことがなかった。 彼が請け負うカメラのパーツばかりを扱っていたので、初めて完成したカメラを見た彼の表情には何か激しい感情に揺れていると私は感じ取った。
工場見学が終わり、私は首にぶら下げていたX-Pro3をテーブルの上においた。 「カメラを見せてくれないか?」と彼は私に聞いてきた。
Bはファインダーを覗き、写真を撮っていいか?と言った。
「もちろん」私は答えた。
彼がシャッターボタンを切ると、複雑な表情が現れた。 彼はうなずいた。カメラを持ちもう一度うなずいた。もう片方の手で、繰り返し胸を叩いた。長い間耐えてきた興奮と努力を抑えるかのように。
そして、店頭に並んだらX-Pro3を購入することをその場で宣言した。
後に、Bがトッププレートの製造に深く関わっていたことを教えられた。 金曜日、バーで仲間たちとビールを飲むときも、トッププレートを完璧にする方法について語り合っていた。 Bは数か月間、X-Pro3チタンプレートと共に生きていたのだ。
それは献身。 職人としての名誉のために最善を尽くさなければならないと信じる仕事への情熱だった。 写真家にもこういった激しい時がをある そして、それは、職人として成し遂げなければならない唯一のものになることがある。 それはとても感情的な瞬間だった。 涙がこぼれないように、私は身をよじった。
このドキュメンタリーを表現する上で最も難しい部分だ。
それを目撃し、それがどのように感じるかを知っているので、同じ経験をしていない誰かに説明することはとても困難だからだ。
富士フイルムの電子映像事業部は、サラリーマンではなく兄弟の集まりのようだ。
インタビューを通して、あなたがその感覚をつかむことを願っている。
現代、ブランドとの距離が縮まった事によって、製品はよりパーソナルなアイテムになったと感じている。 このドキュメンタリーで、富士フイルムは台本なしで、大胆で、正直に自分自身をさらけ出すことを決めていた。 唯一の検閲は、自己検閲かもしれない。私が「これを見せる?プライバシーの侵害にならないかな?」と聞いたり、インタビューされた人たちが「どのように編集するの?」と聞いたり。
最後に、私は、富士フイルム社が社員を公共にオープンにする姿勢をとても好意的に受け止めている。 総称して彼らがブランドなのかもしれない。 個々に彼らは顔があり、名前を持ち、価値の創造、そして写真の歴史に自身の仕事を捧げている。
カメラ業界は常に進化している。 富士フイルムとの旅で、私自身が本当に好きなのはストーリーテリングであることに気付いた。 写真は媒体だ。 そして、媒体は、物語を伝えるためにある。
2019年はCamera Punkを通じて多くを学んだ年だった。膨大な情報の処理と整理、惜しみなく取材や撮影に時間を割いてくれた人の寛大さ、彼らの期待に値するべく彼らのメッセージを伝えこの映画を完成させた。
プロセスは結果と同じくらい重要。 「Camera Punk」で得た最も貴重なことは、世界中にいる富士フイルム社員やXフォトグラファーとの友情です。