写真は幻想的な空間である
写真は幻想的な空間であり、その中でコードを読み取るように現実を再配列することを可能にします。概念や感情を配置し、アレンジし、操作し、変化させ、体現することができます。呼吸を物質化することもできます。
私は80年代に偶然に写真と出会い、実践を始めて間もなく、まるで言語を扱う活動をしているのだと気づきました。見る人がそのイメージから読み取ることを、何らかの方法で指示することができるのです。つまり、アイデアを発信するゲームなのです。
自分らしいと物語を伝えるのは簡単ではなく、アクセサリーのようなものをすべて捨て去るのに長い時間がかかりました。本質を追求するあまり、やがて「人」も単なる一つの要素だと思えてきました。
このように、素材を変えることで対象との距離が縮まり、機材も変わってきました。私は中判カメラを使い始めましたが、これは私がやり始めた仕事の種類により適していたと思います。よりゆったりとした、より瞑想的な作品で、イメージの中に現れるものすべてに場所と理由があるのです。
自然光を使い、カメラと三脚だけの機材で、できるだけ少ない要素で作業するという、禁欲的でスパルタ的な考え方が、このプロセス全体にはあります。あとは頭の中にあるものを、自分にも他人にも見えるようにする作業です。
私はモノに恩を感じています。それは、モノが私の日常生活を助けてくれる以外に、人生を別の方法で、より豊かに、より深く理解することを助けてくれたからです。
そして、私がモノについて話すときはいつも、カメラの向こう側にあるモノだと理解されますが、カメラ自体もやはり別のモノであり、今回GFX100Sと仕事をする機会を得たことで、今まで疑いもしなかった、これまでにない定義を見出すことができました。
聖書にある「すべてを見通す目」という表現が思い起こされます。距離を置くことで、GFX100Sのことを指していると理解できるかもしれません。